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2009年3月

小説『別離』

『別離』

 少し疲れた。
 たんぽぽを一房摘み、それを高く掲げる。空は青く風は強い。
 手の中で危うげに靡くたんぽぽを呆然と見つめながら、溜息をゆっくりと吐く。
 その行為に意味などなかった。衝動的な無意味な行い。
 摘んだ指先の間で菜の花を擦る。細くしなやかな茎はすぐに擦れて無くなり、たんぽぽは手の中から風に攫われてしまった。
 そうして地面に落下した。
 腰を屈めてぼろぼろになったたんぽぽを観察する。数秒の後立ち上がる。軽い立ち眩みを覚えた。
 視野が狭まる。暗くなる。
 世界が閉じていくと言う感覚に見舞われる。頭は回転せず何も考えられない。
 いっそう、このまま地面へ向かって倒れてみようか
 そんな事を思いつく。
 実行はしなかった。そんな事をしたって痛いだけだ。代わりにその場に座り込む。
 最近衝動に流されすぎだ。それは反省しなければならないかもしれない。
 けれども。周りの全てが遠くへ行ってしまったような疎外感と孤独感に苛まれる自分は、衝動に従い行動せずにはいられなかった。
 胸が空虚だ。
 考えるのが億劫で、行動に一々理由を求めるが煩わしい。
 だから無性に叫びたくなる。理由なんて必要ない。原理なんて必要ない。煩わしいだけだ。本当に。
 与えられた真実は残酷で容赦ない。留まる事無くぶつかって来る。
 ああ、そうさ。
 自分は受け入れていないのだ。親友が死んだと言う真実を、未だに。
 彼が自殺してから一年が経った。今日が丁度一年目だ。
 未だに実感が湧かない。
 葬式には出た。死に顔も拝んだ。でも、だからなんだ。
 理解できなかった。
 もうあいつと二度と喋る事が出来ない。そんな発想が出来ない。
 いつまで経っても自分の隣にはあいつが居て。そして、それで他愛もない日常が回されるのだ。
 一年経っても自分の頭の中にあいつが居る。
 でも、彼は死んでしまった。断りもなく予兆も見せずにあっさりと。
 堂々巡りの思考。
「おー久しぶり」
 響いたその声で我に返った。頭の中でぐちゃぐちゃに織り交ぜられた過去の傷心と現在の傷心が全て消え、現実が戻ってくる。
 炎の揺らめきのように不確かで屈折した心象風景は、目も冴える様な青空と綺麗に咲き誇るたんぽぽの群れと言う現実へ引き戻された。
「久しぶり」
 座ったまま声に応えながら振り返り、その姿を認める。
 内野公恵だった。親友だったあいつの彼女だ。 
「もう一年か。早いもんだね」
 内野は自分の隣に座り、そう語りかけた。
「そうか」
 そうか。確かに早いもんだ。一年と言う時間が既に過ぎていると言うのに、悲劇は昨日に起こったような気がする。
 早すぎる。
 気づけば泣いていた。涙がぼろぼろと零れている。
 内野は戸惑いながら言葉を投げかける。
「まだ、立ち直れてないの?」
 それは不快で虫唾が奔る台詞だった。
「何だよ、お前は立ち直ったって言うのかよ?」
「そうだよ」
 頭が一瞬真っ白になった。内野を殴り倒したくなった。
 衝動に従いそうな身体を辛うじて押さえつける。
「馬鹿だね。もう一年も経ってるのに」
 内野の追撃は完全に怒りの琴線に触れてしまった。
「だから、何だ! お前、あいつが好きだったんだろう! 経った一年で忘れてしまうのかよ!」
「まるで子供だね」
 嘲笑するように内野の口が動く。
「好きだったよ。でももう一年経ったんだよ? それに付き合って私達は三ヶ月くらいしか経ってなかったし」
 ああ、まるで話が通じない。この女は何なんだ?
「だからなんだよ? あいつが死んだんだぞ?」
「そうよ、死んだんでしょう? 何と言うか、全然話が噛み合わないね」
 内野は立ち上がった。
「私は先に行ってるね」
 踵を返し歩き出す。
 慌てて立ち上がり、その後を追いかけ肩を掴んだ。
「何?」
 振り返った内野は心底不機嫌そうに口を開いた。
「お前にとってあいつはなんだったんだ?」
「彼氏だった人」
 淡々と応える内野。
「じゃあ……」
「じゃあ、何? ちょっと異常だよ」
「異常って何がだよ? お前の方こそ異常だろう!」
 叫び声が強風に吹き飛ばされる。内野は大きく溜息を吐いた。
「ねえ、あいつに会ったら先ず初めに何したい?」
「自殺理由を聞くさ」
「そう、私はぶん殴ってやるよ」
 その内野の言葉に心底殺意を覚えた。この女本当に頭が狂っているんじゃないのか?
「だって、裏切られたんだよ私たち」
 内野がその言葉を口にした瞬間、強い眩暈を覚えた。
「裏切られたって……」
「だって自殺したんだよ。あいつは。未だに理由も解んないし。それを私たちに話す事無く、逃げたんだよ」
 ――それは違う。
 喉まで出掛かったその台詞は、言葉にならなかった。
 あいつは本当に自分の事を親友と思っていたのだろうか?
 そんな疑問が現れる。
 と言うよりも昔から考えていた事だ。でも深く考える事が出来なかった。真実とはいつも残虐で、それを知っていたから。絶望はこれ以上したくなかったから。
「親友も彼女も家族も――その全部をはかりに掛けても、逃げる事を選んだ。ねえ、むかつかない?」
 能面のような無表情さで彼女は訊ねる。
 思考は停止した。内野が言っている事が理解できない。
「一年経っても立ち直られないなんて、よっぽど彼の事好きだったのね。私よりも、彼を愛していたんじゃない?」
 内野は目を逸らし、前を向いた。
「そうだ。俺はあいつが好きだった! 冷徹なお前なんかよりもずっと!」
「そう、好きだったんだ? でも彼は男であんただって男じゃん。私は女だよ?」
 内野は歩き出す。俺はそれに続いた。
「ねえ、もう彼は死んだんだよ。死人に何を求めても無駄じゃない? おかしいよ、あなたは。絶対に」
「お前は経った三ヶ月しか、付き合ってなかったんだろう? 俺はあいつと十年もの間親友だったんだ!」
「年月が愛情の秤だって言うの? 馬鹿じゃないの? それだったら家族が一番あいつを愛しているじゃん? まあ、それはそうなんでしょうけど。でも彼の家族はもう皆立ち直ったよ?
 少し勘違いしているようだけど、私も家族も皆彼の事を忘れたわけじゃないよ。ただ、前を向いただけ。ずっと後ろを向いているのはあなただけ。
 だから、異常だって言ってるの。一年経っても前を向けないなら……まあ、二年経ったら前を向けるかもね? 所詮時間と共に忘れちゃうでしょう」
 捲し立てる内野の台詞に、やはりこいつは冷徹なやつだと思った。
「俺は永遠にあいつを忘れない」
「だから狂っているって言ってるのよ、あなたは。私だって忘れたわけじゃない。ただ風化していくだけ。あなたもすぐに解るようになる」
「よっぽど冷徹で冷酷だな」
「そう? あなたがよっぽど子供っぽいだけじゃない?」
 埒が明かない。ああ、何だこれは。胸の内で疼くのは憤怒だった。
「もうすぐ墓前よ、もういい加減にしたら?」
 怒りは爆発寸前だったが、あいつの墓までもう少しなので、内野の言うとおりにする。
 あいつの墓の前でみっともない言い争いなんてしたくない。
「あら、内野さんに浩二君?」
 墓に辿り着く寸前に声を掛けられた。
 あいつの母親だった。その隣に父親もいた。
 その表情は、笑顔だった。
 心底俺は絶望感に陥った。墓参りの後に笑顔だなんて、これは、絶対に間違っている。
「どうも、お久しぶりです」
 内野も笑顔で応える。
「お久しぶりです」
 俺も応えながら確かな憤りを感じずには要られなかった。
「あの子も喜ぶわ」
 そう言って彼の母親は俺たちの横を通り過ぎていく。父親もまた通り過ぎていく。
 言葉が出なかった。
 あいつらは何で笑顔なんだ? 悲壮感に満ち溢れたこの場所で、どうして?
 何だかこれでは俺一人が馬鹿みたいじゃないか。
 内野は墓に近づき目を伏せた。呆然としつつも、それに倣う。
 目を閉じればあいつとの思い出が鮮明に蘇ってくる。
 例えば他愛も無い話でも盛り上がった事とか。何気ない挨拶のやり取りとか。幼少時代にしたかくれんぼとか。
 全てが生々しい鮮明な現在として頭の中に浮かび上がってくる。
「もう、今日で最後」
 ぽつりと内野は呟いた。
「あ?」
「墓参り。今日が最後。もう私は来ないよ」
 その言葉はつららの如く、鋭利で冷たかった。
「あいつは! お前を愛していた! お前だってそうだったんだろう!」
「そうだよ。大好きだった。でも裏切られたんだよ」
 再び浴びせられる言葉は、もはや罵倒にしか思えなかった。
「何言ってるんだ!」
「何って、あいつは死んだんだよ?」
 そう、あいつは死んでしまったのだ。
「そんな事解っている! だからなんだ!」
「全然解ってないじゃん。もうあいつは居ないんだよ?」
 そう、あいつは居ない。
 しかしそれが何だというのだ。それはただそれだけだ。彼は死んだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 頭が混乱した。
 ――彼が死んだ?
 そう、彼は死んだ。
「そんなに彼に会いたければ浩二も死ねば? あいつが裏切ったみたいに、親とか友達とかそう言うの全部捨てて」
 彼女は立ち上がった。
「ばいばい。私先に帰るね。あいつは、全部捨てて逃げたんだ。最悪なやつだよ」
 足音が段々と遠ざかっていく。
 ――死ねばいい?
 そうか、死んでしまえばあいつと会えるかもしれない。
 目の前には墓石がどんと居座っている。あいつの墓だ。 
「何で、死んだんだよ……」
 呟きながら、未だに実感が湧かない。
 本当に死んだと言う確かな感触が無い。
 あいつは今でも生きていて、どこかで笑っているんじゃないだろうか。
 ――あいつは死んだんだよ?
 内野の言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
 理由もわからないまま、あいつは消えた。
 悩み事があったなら相談くらい乗ったのに。だって親友だろう?
 勿論その問いかけに、誰も応えてくれない。あいつはだってもう居ない。
 どうして?
 思考は堂々巡り。
 もう、訳が解らなかった。
 やっぱり裏切られのか。
 あいつへの思いは消えないまま、俺は墓石に抱きついて涙を流した。
 どれくらいそうしていただろうか。
 幸い墓参りをしている人は他には居らず、俺の奇行は誰にも見られていない。
 墓石から離れ来た道に沿う。
「来年又来るからな」
 そう言葉を残した。
 来年果たして自分はあいつが居なくなった実感を得られるのだろうか。
 良く解らない。未だに信じられないで居る。
 酷く疲れた。
 歩みは鈍く亀のようだ。
 バス停までのほんの数分の道のりがずっと遠くに感じられた。
 バス停には内野が居た。あいつの両親は居なかった。車で帰ったんだろう。
 無言で内野の隣に立つ。
 内野は何も喋らなかった。俺も何も喋らなかった。
 バスはすぐに来た。
 バスの中は空いていた。自分と内野以外には一人しか乗客が居ない。
 先に席に着くと内野がその隣に座ってきた。
「ねえ」
「何?」
「本当に立ち直れてないの?」
「……ああ、今でも実感が湧かないよ……あいつと喋ったのが昨日のようだ……」
 内野は心底困惑したように、自分を見た。
「そうなんだ……一年じゃ足りないのかな?」
「まさか? 俺は永遠に忘れないよ」
「そりゃあ、私だって忘れないわよ。言っているのはそうじゃなくって、どんどんと薄れていくって事」
「薄れるって何が?」 
「全部」
「馬鹿らしい」
「浩二の方が馬鹿らしいよ」
 内には溜息を吐き、重症、と呟いた。
 俺も溜息を吐いた。
「じゃあさ、死に顔覚えている?」
「覚えてるさ。忘れるわけがない」
「拾った骨は?」
「それも覚えている」
「何だしっかり解ってるじゃん。あいつは死んだんだよ?」
 何だそれと、思わず閉口した。意味が解らない。
「死んだ人を想っても辛いだけじゃん」
 それはそうだけど。
「でも、死んだ人を忘れるのは哀しい事じゃん?」
「だから私も別に忘れたわけじゃないって。ねえ、死んだ人は帰ってこないんだよ?」
「知ってるよ」
「ならいいけど」
 沈黙が舞い降りた。気まずい雰囲気に耐え切れなくなり、窓の外から景色を眺める。土手にはところどころたんぽぽが根を張り、黄色い花を咲かせていた。
 たんぽぽは強い風に当てられ揺れている。
 背もたれに身体を傾け、バスの微かな揺れに身を委ねる。
「ねえ、本当に彼を恨んでいない?」
 内野が訊ねた。
「ああ、何で恨む必要があるんだ?」
「何で恨まないの?」
 まるで噛み合わない。やっぱり内野はおかしいんだ。
 それから再び沈黙。十数分をそうして過ごした。
「浩二はあいつを溺愛してたんだね……」
 地元へバスが着いたとき、内野はそう囁いた。
「異常なほどに」
 立ち上がった内野に俺も続く。
 確かにそうかも知れない。恋人であった内野よりも俺はあいつを――
「私も好きだったよ。大好きだった。だからこそむかつく。だってそうじゃん? 大好きな人に裏切られたんだよ? 失望したよ? 恨まずに要られない」
 捲し立てるその言葉は俺ではなく、俺が見ている幻想を責めるよう。あるいはあいつ自身を責めるようだった。
「馬鹿みたい」
 と内野は最後に呟いた。それからばいばい、と背を向けたまま手を振り去っていく。
 俺の足元には一房のたんぽぽが咲いていた。それはもう綺麗なほどに。

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小説『フラッゲ、もう一度だけ』

『フラッゲ、もう一度だけ』

 迫り来る斧を見て、木は泣いたのだろうか。
 君は木を可哀想に思った。憐れんだ。木を想い泣いた。
 君は友達だと思っていた。唯一の友達。
 木はフラッゲと名乗った。少なくとも君はそう信じていた。
 君が最初にその木を見たのは、十一歳の秋だ。紅葉の舞う中央に、フラッゲは立っていた。周りの木とその木は明らかに違っていた。
 フラッゲは優しい木だった。
 スクールで先生に叱られた秋のその日、君はフラッゲに寄りかかっていた。
 フラッゲは囁いた。優しい声だった。
「大丈夫?」
「僕は何もやっていない。花瓶は僕が来ていた時には割れていたんだ」
 そうだね、とフラッゲは君を優しく包み込んだ。 

■ 

 君は毎日のようにスクールの裏山に通った。フラッゲが居る山だ。
 幼馴染のミリリーは君のことを訝しく思っていた。
「ねえ、いつも何をしているの?」
 ある日、ミリリーがそう訊ねた。確か、君がフラッゲと出会って二週間後だったと思う。
 君は答えなかった。木と話すのは、規範意識から外れていることを君は知っていたからだ。
 それは異常だ。人間は木と話すことができない。
 だから話さない。話す必要がない。
「別に」
 君はフラッゲへと会いに急いだ。
 風が吹いていた。冷たい秋の風だ。赤色に染まった葉があたりに落ちていた。
「やあ」
 フラッゲが挨拶をする。君はフラッゲに抱きついた。
 フラッゲは本当にいいやつだった。  
「時々思うんだ」
 フラッゲは不安げに葉を揺らせた。
「我々はもうすぐ死ぬのではないかと」
 君はびっくりした。冷たい風が強く吹きつけたが、フラッゲの葉の揺れは微々たるものだ。フラッゲは頼もしいやつだ。
 そのフラッゲからそんな気弱な台詞が出てくることに、驚いた。
「寿命なの?」
 君は尋ねた。君はおばあさんのミシャハの葬儀を頭の中に思い浮かべていた。
 母は、寿命で死んだのだといった。
 人間には寿命が決められていて、それに達すると、天国へ――神の元へ行くという。
 ミシャハは冷たい表情をしていた。表情がなかった。目は閉じられていた。口は開かなかった。君は泣いた。
「いいや」
 フラッゲは答えた。
「泣かないで」
 そして続けざまに言う。君は泣いていた。おばあさんを思い出し、そしてそれをフラッゲと重ねて泣いた。
「うん……じゃあなんで、死ぬの?」
 フラッゲは考え込んだ。しきりに枝葉を揺らしていた。赤色に染まった葉がひらひらと落ちる。
「切られるんだ」
「切られる?」
「そう、ここの森はなくなる。ここは山の中でも平らなところだ。我々は切り倒されて、整地され、新しいグランドになる」
「そんな……」
「スクールには野球チームとフットボールチームがあるんだろう? 君が話してくれたよね?」
「うん」
「でもグランドはひとつだ。テニスコートも必要だ」
 君は驚いた。フラッゲが死を受け入れているように思えたからだ。
「そんな、でもフラッゲ。そんなの嫌だよ」
 君は泣いた。
 フラッゲは優しく訊ねた。
「君は、どうして我々の中でもこのフラッゲに声を掛けたんだ?」
 君は答えることができなかった。泣いていたというのもあるが、本当にわからないのだ。ただなんとなく、このフラッゲだけが他の木々と違っていた。
 その違いが何なのかわからなかったけれども。
 君はしばらく泣いて、それから家に帰った。



 君は学校で新しいグランドができるという噂を聞いた。君は恐怖した。
 どうしよう、フラッゲが死んじゃう……、と。
 君は毎日裏山に通い、フラッゲと会って話をした。
 フラッゲはいつも優しく君と話した。
 家に居るときや学校に居るとき、君は一人ぼっちだった。かろうじて、近所のミリリーと話すくらいだ。
 君はよく、家の中で、自分の心の中に閉じこもった。
 心の中に入るのだ。心の中は自分の家そっくりだった。キッチンがあり、リビングがあり、玄関がある。二階建てで、二階には君の子供部屋がある。
 それから、トイレ、母と父の寝室。
 玄関を開けると現実世界に戻るのだ。
 心の中には母と父がニコニコしてソファに座っている。
 それからミリリーがテレビを見ている。君が話しかけるとテレビを消して話し相手になってくれる。
 フラッゲと出会ってから、君の部屋にフラッゲが居るようになった。心のその部屋の中でも、フラッゲは君に優しく接してくれた。
 それから猫がたくさん居る。猫は部屋を縦横無尽に駆け巡る。多いときは十匹もの猫を見る。
 猫達は自由気ままに、君の心の中に出入りする。
 その日の夜も、君は心の中でフラッゲと話した。それからミリリーと話して、母と父にお休みのキスをする。それから玄関を出て、現実の自分の部屋に戻り、君は寝る。



 君は風邪を引いた。学校を休んで、寝ていた。つまらなかったので心の中に入った。心の中で、君は風邪など引いていなかった。
 元気だった。テレビを見た。それからミリリーと話した。ミリリーは風邪を引いた君を気遣ってくれた。
 それから二階に上がり、君はフラッゲと会う。
 フラッゲは優しかった。風邪の君を気遣ってくれる。フラッゲは君の部屋の真ん中にドンと聳えていた。
「元気だよ」
 君は笑った。フラッゲは安心したようだった。
 君は結局四日もスクールを休んだ。それからスクールは休日で休みで、次に君がスクールに行ったのは一週間後だ。
 スクールが終わって、君は裏山に行った。心の中ではなく現実のフラッゲに会うのは久しぶりだった。君は嬉しかった。
 なかった。
 何もなかった。



 君は心の中に居る。君は悲しんでいる。現実を受け止めきれない。君はリビングの椅子に座った。
 あの光景はなんだったのか。
 君は玄関を出、再び、現実の世界へと戻る。


 
 なかった。何もなかった。フラッゲは居なかった。フラッゲどころか、木が生えていない。



 君は心の中に入った。それから、君の部屋へと急ぐ。
「嘘だ……」
 フラッゲが居なかった。心の中に居るはずのフラッゲが居ない。
「ママ! パパ!」
 返事はなかった。
「ミリリー!」
 返事はなかった。君は母と父の寝室へ急いだ。誰も居ない。一階へ降り、キッチンを見た。誰も居ない……
 君は再び二階へ上がり、トイレを覗いた。誰も居ない……
 君は心の中に君以外の誰も居ないことに気づいた。猫さえも居なかった。
 君は子供部屋で泣いた。
 迫り来る斧を見て、フラッゲは泣いたのだろうか。君は斧でフラッゲが切り倒される姿しか想像できなかった。
 君はフラッゲを可哀想に思った。憐れんだ。フラッゲを想い泣いた。
 君は友達だと思っていた。唯一の友達。



 とびら が みえた。きみ の へや に とびら が みえた。
 ふたつ だ。ひとつ は トイレ や パパ と ママ の しんしつ へ いく とびら。
 もうひとつ は?
 もうひとつは   なに?
 はじめてだった。 きのとびらじゃなかった。 てつの とびらだった。
 かたそうに みえた。 つた が はりついていた。
 きみ は その とびら に て を かけた。
 おもかった。
 この とびらは なんなのだろう。いままで なかった とびら。
 まがまがしく かんじた。 あけるのは いやだと おもった。
 でも、 きみは あけた。



 フラッゲだった。扉の先に居るのはフラッゲだった。
 君は喜んだ。君は走った。扉が閉まった。振り返る。扉が消えた。ここが砂漠に見えた。広大な砂漠の真ん中にフラッゲが居る。
 君は恐怖した。
 フラッゲへと急いだ。
 フラッゲは確りとそびえていた。
「フラッゲ!」
 叫んだ。フラッゲは返事をしなかった。
「フラッゲ!」
 フラッゲに抱きついた。
「え……」
 血だった。赤い血がべっとりと君に張り付いた。
「あ……」
 君は退く。嘘だ。
 血だった。真っ赤な血。空が、太陽と、青色の空、白の雲が、全て赤へと変わった。
 壁ができた。鈍色の鉄の壁だ。狭い部屋だった。天井だけが赤い。
 その部屋の真ん中にフラッゲが居る。血を流していた。枝が折れていた。
 君は、ぴったりと鉄の壁にひっついた。フラッゲから遠ざかった。
「我々が怖いのか?」
 フラッゲが口を開いた。
 君は答えられなかった。
 わからなかった。こわかった。早くここから出たかった。
「出して……」
 玄関が見えない。出口が見えない。ここは君の心の中のはずなのに、出口がなかった。
「助けて」
 フラッゲに懇願した。フラッゲは答えなかった。怒りのまなざしで、君を見ていた。
 突然鉄の壁に扉が出てきた。君は扉をくぐった。



 血だった。血に塗れたフラッゲがたくさん居た。どれもフラッゲだった。何本も何十本も何百本もフラッゲが居た。
 フラッゲは全部フラッゲに思えたが、微妙に違っていた。枝が折れてたり、葉が落ちていたり。
 フラッゲたちが、君を包んだ。君は動けなかった。
「フラッゲ……」
 フラッゲは何も答えない。
 血が滴り落ちる。
 
 あかい ち だった。 めのまえが まっか に そまった。
 きみは ふらっげ を おもい ないた。
 ふらっげ は オノ に きりたおされるとき どうおもっただろうか。 こわかっただろうか かなしかっただろうか いやだっただろうか
 オノ が あった オノ がふりあげられた きみ のどうたいに オノ がふかぶかと ささった
 きみの どうたいが ふたつ に われた きみは ないた
 いたかった かなしかった こわかった
 いやだった
 しにたくなかった フラッゲ タスケテ しにたくない
 フラッゲは こたえない きみは すがった ふらっげにすがった
 したたりおちてくる ち をはらう
 ふらっげ たすけて ふらっげ たすけて ふらっげ たすけて……………
 なにもなかった
 なんの へんじもなかった
 それでもきみは ふらっげ をよびびびいいいいいいいいいいつつづづづづづづづづけるるるるるる

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小説『想い出』

『想い出』

 刻々と動いていく長針を眺めながら溜息を吐く。今日は八月二十日だというのに壁にかけられたカレンダーは六月で止まっていた。全てがどうでもよくなった証だった。
 六月二十七日に大きく赤丸が記してある。わたしもあの子もこの日を楽しみにしていたはずだった。けれども素敵なその日は来なかった。そしてこれからも来ない。ずっとずっと永遠に。
 時計から目を離し欠伸をする。蛇口をひねりコップに水を注ぐ。冷たいその感触は、もちろんわたしの涙腺に触れるはずがない。それはだって冷たくて、あの柔らかく温かい雄太の肌とは程遠い。 
 だけれども、わたしの目からは涙が零れていた。
 そういえば雄太は水が嫌いだった。「お茶が蛇口から出ればいいのに」雄太の口癖。「じゃなきゃオレンジジュース」これも雄太の口癖だった。
 水を飲み干して、灼熱の外へとわたしは飛び出した。気だるい日々から抜け出したかった。がむしゃらに走った。
 人生とは辛いものだ、とかつて誰かが言った。先生とか親とかそこらへんだろう。
 確かにそうだ、人生は残酷すぎる。神様、何も雄太を取り上げることないじゃない。六歳の誕生日を迎えることないままに、あの子は消えてしまった。
 狭く暗い棺に雄太は閉じ込められた。雄太は焼かれた骨になって、さらに狭い壷の中に閉じ込められた。それから冷たい土の中へ埋められた。
 わたしは何もできなかった。棺越しから見える雄太の冷たい死に顔に、絶望する。それだけ。
 太陽がぎらぎらと光線を発している。酷く暑い。いっそうのこと三途の川を渡れば雄太に会えるのかもしれない。
 ばかげた幻想だった。わたしは三途の川を信じていない。たとえば霊媒師だとかシャーマンだとか巫女だとかそういった類のものを信じていないし、イエス・キリストもモーセもムハンマドもブッタもしかり。でも神様的なものは存在していると、漠然と思ってはいる。
 だから。どうというわけでもない。いっそう信じてしまえばよかったのに。死ねば雄太に会えると思えたらよかったのに。
 暑さに参ったわたしは公園の木陰に入る。涼しさに一息吐く。
 公園を見渡すと滑り台、ブランコ、ジャングルジムなどが見えた。雄太もよく滑り台で遊んだっけ、と思い出す。ジャングルジムは嫌いだったっし、鉄棒も嫌いだった。ブランコと砂遊び、それから滑り台が大好きだった。髪を切ったばっかりの雄太は、それが恥ずかしいらしく黄色い幼稚園の帽子をかぶって遊んでいた。帽子が取れないように気をつけながらブランコに乗っていたっけ。危なっかしくて見ていられなかった。――そんな事もあったっけ。
「ママ」
 そんな幻聴がした。雄太はドロで作った団子を嬉しそうに差し出している。今のわたしなら多分喜んで食べるだろう。当時のわたしは、よくできましたと雄太の頭を撫でたっけ?
 そう、雄太の頭をくしゃりと撫でたのだ――ざらり
 気づいたら砂場の上にいた。わたしの手には容赦なく乾いた白い砂の感覚が伝わっていた。砂広場の端には打ち崩れた砂の城が見えた。
 わたしは立ち上がり図書館に行くことにした。雄太は本が好きだった。特にわたしが読んであげる紙芝居が大好きだった。
 しばらく灼熱の道を歩き図書館に着いた。自動ドアをくぐり、凍てつくようなクーラーの空気を肌に感じた。
 わたしは児童書の紙芝居コーナーに足を運んだ。『桃太郎』『おむすびころり』『人魚姫』……目に付くタイトルはかつて雄太に読んでやったものだ。懐かしさに思わず手に取った。
 雄太は特に『白雪姫』が好きだった。
 わたしの目は『白雪姫』を追っていたが、それは見当たらなかった。
 わたしは何をやっているのだろうか。自分自身に呆れながら虚しく図書館を出た。汗が引いた肌は灼熱にさらされ、再びそれが滲み出る。
 家に帰ろう。そう思い立った。結局逃げる場所はどこにもなかった。家の中から逃れたところで、雄太の思い出から逃げることはできない。わたしはずっと雄太に囚われてたままだ。それは公園でも図書館でも家でも一緒。
 虚しく虚ろな日々は永遠に終わらないのだろうか。そう思うとぞっとした。
 どうして雄太は消えてしまったのだろうか。
 どうしようもない現実にわたしは打ちひしがれた。
 あたりを夕日が照らし始めた。その赤色がたとえば血のような不吉なものを連想させわたしを憎悪に駆り立てる。幻想が浮かんだ。血を流す雄太の姿だ。憎悪はますます増幅した。
 しかし、――どんなに憎悪したところで現実は変わらない。現実はいつもわたしの前に容赦なく立ちふさがる。わたしはどうしようもなく無力だ。この二ヶ月それを嫌というほど痛感した。
「ただいま」
 つい二ヶ月前までは雄太がただいま、と大きく声を出していた。今はもう、そんな元気な声がこの玄関に響くことはない。
 二度と永遠に。
 わたしはそのまま子供部屋に行く。
 綺麗に片付いた子供部屋。机の上に並べられた数点のおもちゃ。目を背けたくなるものばかりだった。
 見たくなかった。机もだ。全部壊れてしまえばいいのに。
 ならば、どうしてわたしはこの部屋にいるのだろう。
「どこへ行ったの?」
 声は虚しく消えてゆく。想い出はしつこく残り続ける。
 玄関が開く音がした。
「ただいま」
 夫が帰ってきた。消沈とした彼の声を聞いたわたしはゆっくりと子供部屋を出て彼を迎えた。
「お帰り」
 彼の声もまた悄然としていた。
 わたしは泣きたくなった。
 彼は溜息を吐く。気だるさをその両肩に抱え、死んだ魚のような瞳は疲労を湛えていた。緩慢な動作で靴を脱ぎ、玄関まで迎えに行ったわたしには目もくれず隣を通り過ぎる。しかし、そのことに対してわたしは何も感じなかった。
 スーツを脱いだ彼はいまさらのようにわたしの存在に気づき、あるいは気づいたように振る舞い、ただいま、と呟いた。
 お帰り。わたしも同じように、彼に初めて気づいたかのようにやや表情に驚きを混ぜる。そして少し微笑む。彼もわたしの微笑みに便乗してその堅苦しい顔を和らげた。
「飯、何だ」
 彼は表情を戻しぞんざいに訊ねた。
「ごめん。何も作ってない」
 悪びれもなく言った。
「そうか……たまには、外食でもするか」
「そうね」
 外食か。外食なんていつ以来だろう。雄太が死んでから一度も行っていない。
「どこに行く?」
 努めて明るく彼を見つめた。
「そうだな、安っぽいけど回転寿司なんかどうだ」
 回転寿司――それを聞いた刹那泣きそうになった。雄太が大好きだったものだ。回る皿が大好きだったし、お寿司も大好きだった。プリンとかメロンとかに意気揚々と手を伸ばして食べてたっけ。ネタは玉子焼きアナゴが好きだった。
「回転寿司か、久しぶり」
「そうしよう」
 夫は車のキーをキーケースから取り出し車庫へと向かった。
「まって、着替えるから」
「着替えるって、……お前化粧とかもするつもりだろう? 時間かかるからいやだよ。着替えだけ済ませたらさっさと来い」
 酷い事を言われた気がしたが、もはや何もかもどうでもよくなって言われたとおり着替えるだけに留めた。確か車の中に化粧道具があったはずだし。助手席に乗り込んでシトーベルトをする。このシルバーのカローラワゴンは雄太が大好きだった。今わたしが座っている助手席があの子の特等席だった。
 車はさも当たり前のように公道を走ってゆく。
「ねえ、引っ越さない」
 わたしはさも当然のようにそう口にする。
「それはいい考えかもしれない」
 タバコを吸いながら運転する夫は、真面目にそう頷いた。
「どこにしよう。どこがいい?」
「どこでもいいわ」
 窓から見える風景は実に当たり前だった。全部見覚えがあり、わたしの脳内に完全に記憶されている。だから辛い。
「北海道にでも行くか」
 彼はタバコの煙を吐き出した。一面銀世界か、と考える。それは素敵かもしれない。少なくともここよりかは。結局どこでもいいのだ。見慣れた世界から抜け出せるなら。
「いっそうアメリカとかさ」
 彼は笑った。わたしもつられて笑う。
「いいかも。アメリカね。うん、でもわたし英語できないよ」
 目的地には十分も掛からず着いた。
 わたしと彼は黙々と、回っている寿司を食べた。
 熱いお茶は心の中に染み込む。哀しみを抉るかのようにだ。
 食べ終わって車に乗り込む。やっぱ、アメリカだね。わたしは彼に呟いた。絶対にアメリカに引っ越そう、と続けた。
「なあ」
 車を走らせた彼はふと思い出したように言った。
「何?」
「今時速六十キロで走ってるよな」
「え? うん」
「手っ取り早くさあ、ハンドル右に回さない」
「え?」
 ハンドルを右にと言っても、別段カーブというわけではない。右側にはコンビにやらガソリンスタンドやら消灯された民家やらが立ち並んでいる。そんなところへ、――
「え――? ふ、ふざけないで! 死ぬって言うの?」
「ああ、それもいいかもな」
 夫はタバコを吸いながら、何事もなかったかのようにとぼけた声で呟いた。
 そんなことしても雄太には会えないのに。そう思った。それとも夫は神様を信じていて、三途の川を信じていて、イエス・キリストやヤハウェイやアッラーや釈迦を信じていて、死ねばあの子に会えるとでも思っているのだろうか。
 あるいはそうなのかもしれないという考えがわたしの頭の中を過ぎった。
 それはそれで幸せなのかもしれない。
「ねえ、やっぱり引っ越そう。アメリカじゃなくていいからさ」
 彼はゆっくりと頷いた。
「そうだな、それが一番だ。もう嫌だよ、ここは」
 無気力げな夫の呟きを聞き、わたしは引っ越したところで結局は何も変わらないだろうという予感に支配されていた。
 現実は容赦なく襲い掛かるものだと実感したのだから、引っ越したくらいでそれから逃れられるはずがないだろう。
 夫ももしかしたらそれをよく理解しているのかもしれない。結局のところ、雄太の想い出の物を燃やして、雄太の想い出の場所から離れて、心の奥底にそれらを仕舞ってもわたし達は絶対に満たされない。その哀しみは消えることがないし、あるいは消えてしまったならばそれは不幸に他ならない。
 ほら、どうしようもない現実がそこにはあるじゃない。
「いっそう」
 わたしは口を開く。
「え?」
「本当にさ、いっそうハンドルを回したら手っ取り早いのかもしれない」
 と、そう。声は静かに車内に響いた。
「そう、だな」
 夫は、ははは、と笑い声を上げた。車は相変わらず公道を走りやがて家へと着くだろう。
 わたしは想い出に凝り固まった夜の街を眺めながら、家に帰ったら引越しの準備をしようと決心した。

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小説『愛は自然と冷めていた』

『愛は自然と冷めていた』

 決定的な事件が起きたわけではなかった。ただ気づけば自然と愛は冷めていた。
 俺も雪子もプライドの高い人間だった。
 でも、別に素直になれなかったわけではない。例えば俺は誕生日に、雪子にマフラーを編んでもらったが、素直に嬉しくて「ありがとう」と囁いた。
 俺は彼女を愛していたし、彼女もそうだった。かつては。彼女は俺に対して好きだよと言った。俺もそうだ、と言った。
 好きだ。大好きだ。愛している。一生大切にする。
 そう思っていた。想いをちゃんと言葉にしたし、メールも電話も怠らなかった。彼女もまたそうだ。
 ただ例えば、俺が彼女を好きになったきっかけは、カラオケで雪子のその綺麗な声に魅了されたからだ、なんて口が裂けても言えなかった。
 告白したのは俺のほうからだった。
「いらっしゃいませ」
 雪子の完璧な笑顔が、お客に対して振り撒かれる。
「しょうゆラーメンを一杯ちょうだい」
「はい!」
 それから後ろを振り返り、餃子を焼く鉄板を掃除していた俺と、ネギを微塵切りしていた高さんに、
「しょうゆいちまい!」
 と、言う。狭く天井に湯気の立ち留まる店中に、その声は響き渡った。
「あいよ」
「あいよ」
 俺と高さんは答える。そこに不自然さはない。俺はプライドによって外壁を埋め、その表面は全くの自然だ。
 高さんは俺の三つ上の人だ。二十三歳フリーター。気さくな人でブラック・ジョークが好きな人だ。背が高くて、笑顔を絶やさないいい人。
 付き合い始めた当初、雪子は、
「わたし、高さんって好きよ。なんかあの人、感じがいいのよね」
 と言った。その口調は「わたしってさ、椎名林檎が好きなんだよね、あの暗い感じが最高!」と言うそれと変わらない。
「そうだな、いい人だ」
 そう答えた。それは強がりではなかった。何も感じなかった。ただ純粋に高さんがいいひとだから、その通りに答えただけだ。
 嫉妬や苛立ちはない。
 でもその態度は、雪子を不安にさせ、苛立たせ、嫉妬を覚えさせた。
 もしも俺が雪子の立場でもそうなっただろう。俺が好きな俳優の名前を口ずさむのと同じように、気軽に「あの人はいい人だな、俺はああいう人が好きだ」と言い、雪子が「そうね良い人ね」と返事をしたなら、どうしようもない不快感に苛まれただろう。
 相手が嫉妬を覚えないことに、嫉妬を覚えるのだ。そういった意味でプライドが高いのだ。捻じ曲がった不器用なプライドだ。あるいは無意味なプライドか。
 俺と雪子はある面非常に似通っていたのかもしれない。捻じ曲がっためんどくさい性格だ。
 高さんが皿に鶏がらのスープと調味料を入れるのを見、麺を茹で始めた。
 きっかり二十五秒。それから上げ、水を切る。床にまだ生温かい水滴が散らばる。
 麺を入れ、チャーシュー、ネギ、メンマ、煮玉子を盛り合わせる。
 完成したそれを雪子がお客に出す。
 高さんがちらりと時計を確認する。
 時刻は夜の八時に近づいていた。八時になれば高さんのシフトは終わりだ。その後、閉店時間の十一時まで雪子と俺の二人でやらなければならない。
 もう十二月になろうとしているので、夏に比べると客も増えた。温かいラーメンを求め、来店する客も多い。
「二人でまわすには、忙しいかもしれないね」
 高さんが囁いた。
 違うのだ。忙しさなど問題ではない。むしろ忙しいほうがありがたい。
 高さんが居なくなってしまったら、俺と雪子のふたりだ。ふたりっきりなのだ。
 俺は基本的に夕方から夜にかけて、シフトに入る。雪子は普段朝から夕方にかけてシフトに入る。
 だから俺と雪子が一緒になることはあまりない。一緒になったとしても、入れ替わりで二時間程度だ。しかも必ず他の人が居る。
 今までは。
 雪子との愛が冷めてから、今日初めて閉店時間までずっと一緒だ。ふたりっきりで。
 はっきりと別れを告げたわけではないし、別れを告げられたわけでもない。
 ただなんとなく、気持ちが薄れていって、連絡を取らなくなって、会わなくなって、そうして終わっていった。つまり自然消滅だ。店で会ってもそのことには何も触れない。お互いに。俺は常に雪子を避け続けていたし、会話は事務的なものだけだった。雪子もだ。
「じゃあおれ先帰るな」
 高さんが欠伸をしながら言った。
「あい、お疲れ様です」
「お疲れ様」
 俺と雪子の声を背中に、高さんは更衣室へと消えていく。
 沈黙が降り立った。客が来てくれないかなと、俺は願った。
 十分ほどの沈黙が続く。俺は意味もなくずん胴の蓋を開け、とんこつスープを掻き混ぜる。スープから湧き出る熱気が、顔を覆う。顔を焼くような熱さに顔をしかめるが、湯気で視界が消えるのに、安堵を覚えてしまう。
 このままホワイトアウトするように、湯気で俺の視界が潰れてしまえばいいのに。
 雪子はレジのお金を計算して、トッピングの在庫確認をしていた。
 それから少ししか溜まっていない洗物を片付けた。時間稼ぎにもならない。まだ十分しか経っていない。あと三時間もある。
「じゃあ、お疲れ様でーす」
 着替え終えた高さんが、帰っていく。お疲れ様でーす、と返事をしたが、心は上の空だった。心も体も本当に上の空へ行ってしまえればいいのに。
「暇だね」
 雪子がそう口を開く。
 そうだな。そう答える俺の声は、しっかりしていたのだろうか。怖かった。震えていないか。嫌味ではないか。語気は強くないか。
 普段通りだろうか。動揺しているところなど、雪子には見せたくない。
 俺は、嫌だった。
 雪子は平然さを保っている。今も平気な顔をしてレジのお金を確認している。
 雪子に何か負い目があるわけではない。しかし別れたという事実が、俺にとっては何だか嫌な出来事だ。
「わたしね、バイト止めるの」
 雪子はさも平然と言った。自然な口調だ。顔には少し笑顔が見える。
 客がその時入ってきた。冷たい空気が同時に入り込み、暖かい店の空気が外へと逃げる。
「いらっしゃいませー」
 俺は何も言えなかった。雪子の声が店の中に響き渡った。雪子の声だけが。
 雪子が注文を取っている。
「とんこつふたつカタ麺で!」
 雪子の声は遥か遠くから、俺の胴体を打ち砕くように、元気よく容赦なく突き抜けてくる。
 俺は自然な動作で調味料と油を入れ、とんこつスープを入れる。
 麺を茹でる。カタ麺だ、ということを忘れてはいない。
 茹で上がった麺を入れ、トッピングをし始める。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。俺は自然だ。ちゃんとトッピングできている。
 出来上がった二杯のラーメンを雪子が客に出す。それから雪子は、最初の客の会計をしていた。
 どうすればいいかわからなくなった。
 雪子がバイトを止める。何故?
 俺のせいなのか? 俺と別れたからなのか?
 会計を終えた雪子が厨房に戻ってくる。
「止めるんだ」
 俺はそれ以上何も言えなかった。理由を聞きたくても、その言葉は出ない。
「うん」
 雪子はそれ以上答えない。俺は冷蔵庫からネギを出し切り始める。ネギの補充は十分だったが、他に仕事がなかった。
 ネギとまな板を包丁が小刻みに叩く音――それだけが、厨房を支配する。
 お客さんの歓談も、俺にはどこか遠い世界で喋っているかのように、あいまいなノイズとしてしか聞こえない。
「ほら」
 雪子はどんな顔をして喋っているのだろう。俺は背を向けていたのでわからなかった。
「もう就活が始まって、忙しくなるからさ、ユウちゃんも来年大変だよ」
「そう……それは大変だね」
「うん」
 ただネギを切ることに集中していた。何も感じなかった。何かを感じようとしなかった。
 客がその時五人くらい入ってくる。学生の集団だった。ほっとした。ネギを切る手を止め、手を洗う。注文を待つ。 
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
 俺と雪子の声が店の中を通った。
 注文はラーメン四杯。
 このまま客が来続けたらいいのに。そう願ってしまう。
 何故?
 別にいいじゃないか。別れたからなんだというのだろう。
 どうってことない。ここに居るのは単なる男と女だ。俺は何も感じていない。何か感じるということがおかいしのだ。
 麺の水を切りながら、俺は自分のことがばかばかしいやつだと、呆れた。俺という人間は面倒くさいやつだと、憤りを感じた。その憤りを感じることに対して、さらに嫌悪を覚えた。
 ラーメンを出し終え、ネギを切りに戻った。
「ユウちゃんって、何?」
 客にラーメンを出し終え、厨房に戻ってきた雪子が、出し抜けに言った。
「何って……?」
「すごく淡白なんだね。平然としていられるんだね」
 それはお前も同じだっただろう。喉まででかかった言葉を俺は飲み込んだ。
 俺は耐え切った。何に?
 俺は勝った。何に?
 俺は安堵した。雪子も俺と同じように、ちっぽけで歪なプライドに縛られていた、ということだったのか。
 そのことに俺はどうしようもない、安堵を覚えたのだった。
 安堵して、それからやっぱりこれは歪だと思う。そんなこと考える俺はいったい何なのだろう。落ち込まず平然としていることが何なのだろうか。
「何も答えないの?」
「俺は……」
 俺は迷った。雪子と同じように、気まずさに押しつぶされそうで、雪子がさも平然としていることにプライドを傷つけられ、だから、俺は淡々と雪子に接していた、と告白するべきなのだろうか。
「わたしたち何で別れたんだろう」
 俺が口を開く前に、雪子は俺を睨み、言葉を続けた。
「お互い馬鹿だったんだろう」
 俺は即答したが、何が馬鹿だったのか理解していないのだろう。実際わかっていない。
 雪子は何も答えなかった。替え玉おねがいしまーす、という客の声に対応するため、笑顔を作る。
 あと二時間四十五分の時間を、どうやって過ごそうかと嘆きながら、俺は麺を茹で始めた。
 決定的な事件があったわけではない。愛は自然と冷めていた。多分俺も雪子も悪いのだろう。
 しかし、俺は、この性格を変える気は毛頭なかったし、そのために幸せな恋愛もできないだろうと確信していた。
 麺の水を切り、お椀に入れる。雪子は冷ややかな視線で、いや、憐れむような視線で俺を見ていた。
 そしておそらく俺も、雪子を憐れむような、見下した目で見ていたのだろう。

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