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小説『愛は自然と冷めていた』

『愛は自然と冷めていた』

 決定的な事件が起きたわけではなかった。ただ気づけば自然と愛は冷めていた。
 俺も雪子もプライドの高い人間だった。
 でも、別に素直になれなかったわけではない。例えば俺は誕生日に、雪子にマフラーを編んでもらったが、素直に嬉しくて「ありがとう」と囁いた。
 俺は彼女を愛していたし、彼女もそうだった。かつては。彼女は俺に対して好きだよと言った。俺もそうだ、と言った。
 好きだ。大好きだ。愛している。一生大切にする。
 そう思っていた。想いをちゃんと言葉にしたし、メールも電話も怠らなかった。彼女もまたそうだ。
 ただ例えば、俺が彼女を好きになったきっかけは、カラオケで雪子のその綺麗な声に魅了されたからだ、なんて口が裂けても言えなかった。
 告白したのは俺のほうからだった。
「いらっしゃいませ」
 雪子の完璧な笑顔が、お客に対して振り撒かれる。
「しょうゆラーメンを一杯ちょうだい」
「はい!」
 それから後ろを振り返り、餃子を焼く鉄板を掃除していた俺と、ネギを微塵切りしていた高さんに、
「しょうゆいちまい!」
 と、言う。狭く天井に湯気の立ち留まる店中に、その声は響き渡った。
「あいよ」
「あいよ」
 俺と高さんは答える。そこに不自然さはない。俺はプライドによって外壁を埋め、その表面は全くの自然だ。
 高さんは俺の三つ上の人だ。二十三歳フリーター。気さくな人でブラック・ジョークが好きな人だ。背が高くて、笑顔を絶やさないいい人。
 付き合い始めた当初、雪子は、
「わたし、高さんって好きよ。なんかあの人、感じがいいのよね」
 と言った。その口調は「わたしってさ、椎名林檎が好きなんだよね、あの暗い感じが最高!」と言うそれと変わらない。
「そうだな、いい人だ」
 そう答えた。それは強がりではなかった。何も感じなかった。ただ純粋に高さんがいいひとだから、その通りに答えただけだ。
 嫉妬や苛立ちはない。
 でもその態度は、雪子を不安にさせ、苛立たせ、嫉妬を覚えさせた。
 もしも俺が雪子の立場でもそうなっただろう。俺が好きな俳優の名前を口ずさむのと同じように、気軽に「あの人はいい人だな、俺はああいう人が好きだ」と言い、雪子が「そうね良い人ね」と返事をしたなら、どうしようもない不快感に苛まれただろう。
 相手が嫉妬を覚えないことに、嫉妬を覚えるのだ。そういった意味でプライドが高いのだ。捻じ曲がった不器用なプライドだ。あるいは無意味なプライドか。
 俺と雪子はある面非常に似通っていたのかもしれない。捻じ曲がっためんどくさい性格だ。
 高さんが皿に鶏がらのスープと調味料を入れるのを見、麺を茹で始めた。
 きっかり二十五秒。それから上げ、水を切る。床にまだ生温かい水滴が散らばる。
 麺を入れ、チャーシュー、ネギ、メンマ、煮玉子を盛り合わせる。
 完成したそれを雪子がお客に出す。
 高さんがちらりと時計を確認する。
 時刻は夜の八時に近づいていた。八時になれば高さんのシフトは終わりだ。その後、閉店時間の十一時まで雪子と俺の二人でやらなければならない。
 もう十二月になろうとしているので、夏に比べると客も増えた。温かいラーメンを求め、来店する客も多い。
「二人でまわすには、忙しいかもしれないね」
 高さんが囁いた。
 違うのだ。忙しさなど問題ではない。むしろ忙しいほうがありがたい。
 高さんが居なくなってしまったら、俺と雪子のふたりだ。ふたりっきりなのだ。
 俺は基本的に夕方から夜にかけて、シフトに入る。雪子は普段朝から夕方にかけてシフトに入る。
 だから俺と雪子が一緒になることはあまりない。一緒になったとしても、入れ替わりで二時間程度だ。しかも必ず他の人が居る。
 今までは。
 雪子との愛が冷めてから、今日初めて閉店時間までずっと一緒だ。ふたりっきりで。
 はっきりと別れを告げたわけではないし、別れを告げられたわけでもない。
 ただなんとなく、気持ちが薄れていって、連絡を取らなくなって、会わなくなって、そうして終わっていった。つまり自然消滅だ。店で会ってもそのことには何も触れない。お互いに。俺は常に雪子を避け続けていたし、会話は事務的なものだけだった。雪子もだ。
「じゃあおれ先帰るな」
 高さんが欠伸をしながら言った。
「あい、お疲れ様です」
「お疲れ様」
 俺と雪子の声を背中に、高さんは更衣室へと消えていく。
 沈黙が降り立った。客が来てくれないかなと、俺は願った。
 十分ほどの沈黙が続く。俺は意味もなくずん胴の蓋を開け、とんこつスープを掻き混ぜる。スープから湧き出る熱気が、顔を覆う。顔を焼くような熱さに顔をしかめるが、湯気で視界が消えるのに、安堵を覚えてしまう。
 このままホワイトアウトするように、湯気で俺の視界が潰れてしまえばいいのに。
 雪子はレジのお金を計算して、トッピングの在庫確認をしていた。
 それから少ししか溜まっていない洗物を片付けた。時間稼ぎにもならない。まだ十分しか経っていない。あと三時間もある。
「じゃあ、お疲れ様でーす」
 着替え終えた高さんが、帰っていく。お疲れ様でーす、と返事をしたが、心は上の空だった。心も体も本当に上の空へ行ってしまえればいいのに。
「暇だね」
 雪子がそう口を開く。
 そうだな。そう答える俺の声は、しっかりしていたのだろうか。怖かった。震えていないか。嫌味ではないか。語気は強くないか。
 普段通りだろうか。動揺しているところなど、雪子には見せたくない。
 俺は、嫌だった。
 雪子は平然さを保っている。今も平気な顔をしてレジのお金を確認している。
 雪子に何か負い目があるわけではない。しかし別れたという事実が、俺にとっては何だか嫌な出来事だ。
「わたしね、バイト止めるの」
 雪子はさも平然と言った。自然な口調だ。顔には少し笑顔が見える。
 客がその時入ってきた。冷たい空気が同時に入り込み、暖かい店の空気が外へと逃げる。
「いらっしゃいませー」
 俺は何も言えなかった。雪子の声が店の中に響き渡った。雪子の声だけが。
 雪子が注文を取っている。
「とんこつふたつカタ麺で!」
 雪子の声は遥か遠くから、俺の胴体を打ち砕くように、元気よく容赦なく突き抜けてくる。
 俺は自然な動作で調味料と油を入れ、とんこつスープを入れる。
 麺を茹でる。カタ麺だ、ということを忘れてはいない。
 茹で上がった麺を入れ、トッピングをし始める。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。俺は自然だ。ちゃんとトッピングできている。
 出来上がった二杯のラーメンを雪子が客に出す。それから雪子は、最初の客の会計をしていた。
 どうすればいいかわからなくなった。
 雪子がバイトを止める。何故?
 俺のせいなのか? 俺と別れたからなのか?
 会計を終えた雪子が厨房に戻ってくる。
「止めるんだ」
 俺はそれ以上何も言えなかった。理由を聞きたくても、その言葉は出ない。
「うん」
 雪子はそれ以上答えない。俺は冷蔵庫からネギを出し切り始める。ネギの補充は十分だったが、他に仕事がなかった。
 ネギとまな板を包丁が小刻みに叩く音――それだけが、厨房を支配する。
 お客さんの歓談も、俺にはどこか遠い世界で喋っているかのように、あいまいなノイズとしてしか聞こえない。
「ほら」
 雪子はどんな顔をして喋っているのだろう。俺は背を向けていたのでわからなかった。
「もう就活が始まって、忙しくなるからさ、ユウちゃんも来年大変だよ」
「そう……それは大変だね」
「うん」
 ただネギを切ることに集中していた。何も感じなかった。何かを感じようとしなかった。
 客がその時五人くらい入ってくる。学生の集団だった。ほっとした。ネギを切る手を止め、手を洗う。注文を待つ。 
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
 俺と雪子の声が店の中を通った。
 注文はラーメン四杯。
 このまま客が来続けたらいいのに。そう願ってしまう。
 何故?
 別にいいじゃないか。別れたからなんだというのだろう。
 どうってことない。ここに居るのは単なる男と女だ。俺は何も感じていない。何か感じるということがおかいしのだ。
 麺の水を切りながら、俺は自分のことがばかばかしいやつだと、呆れた。俺という人間は面倒くさいやつだと、憤りを感じた。その憤りを感じることに対して、さらに嫌悪を覚えた。
 ラーメンを出し終え、ネギを切りに戻った。
「ユウちゃんって、何?」
 客にラーメンを出し終え、厨房に戻ってきた雪子が、出し抜けに言った。
「何って……?」
「すごく淡白なんだね。平然としていられるんだね」
 それはお前も同じだっただろう。喉まででかかった言葉を俺は飲み込んだ。
 俺は耐え切った。何に?
 俺は勝った。何に?
 俺は安堵した。雪子も俺と同じように、ちっぽけで歪なプライドに縛られていた、ということだったのか。
 そのことに俺はどうしようもない、安堵を覚えたのだった。
 安堵して、それからやっぱりこれは歪だと思う。そんなこと考える俺はいったい何なのだろう。落ち込まず平然としていることが何なのだろうか。
「何も答えないの?」
「俺は……」
 俺は迷った。雪子と同じように、気まずさに押しつぶされそうで、雪子がさも平然としていることにプライドを傷つけられ、だから、俺は淡々と雪子に接していた、と告白するべきなのだろうか。
「わたしたち何で別れたんだろう」
 俺が口を開く前に、雪子は俺を睨み、言葉を続けた。
「お互い馬鹿だったんだろう」
 俺は即答したが、何が馬鹿だったのか理解していないのだろう。実際わかっていない。
 雪子は何も答えなかった。替え玉おねがいしまーす、という客の声に対応するため、笑顔を作る。
 あと二時間四十五分の時間を、どうやって過ごそうかと嘆きながら、俺は麺を茹で始めた。
 決定的な事件があったわけではない。愛は自然と冷めていた。多分俺も雪子も悪いのだろう。
 しかし、俺は、この性格を変える気は毛頭なかったし、そのために幸せな恋愛もできないだろうと確信していた。
 麺の水を切り、お椀に入れる。雪子は冷ややかな視線で、いや、憐れむような視線で俺を見ていた。
 そしておそらく俺も、雪子を憐れむような、見下した目で見ていたのだろう。

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